東北大学医学部 教室員会

教室員会の歴史

教室員会の発足

 東北大学医学部教室員会は、戦後の民主化が進む中、1946年(昭和21)9月に大石武一第二内科助教授が初代委員長に就任し発足した。当時の医学部、医学部附属病院の運営に対して、各教室の教授以外の構成員(教室員)の代表が発言する教室代表者会議が開かれるようになったことから始まった。設立の目的は、「会員の勤労条件を維持または改善し、その経済的および社会的地位の向上を図るとともに、研究の自由を確保することによって医学の進歩に貢献し、以って文化国家の建設に寄与しよう」というものであり、労働組合としての性格を有していた。そして、教室間の横の連絡を密にするとともに、同じ目的に向かって進む東北大学教職員組合と連携し、多数の無給職員の有給化を実現した。また、病院職員組合、医学部事務系の職員組合とも連携することで、1948年(昭和23)には医学部長・病院長の公選制を実現することとなった。対外的には日本学術会議会員の選挙への関与、医師会との協力なども行い、学内おいては研究活動に対する東北大学医学部賞の創設への寄与、学生会との協調、文化・運動会の開催なども進めた。様々な民主的活動と共に、教室員会は黎明期にすでに大きく発展した組織になっていたようである。ちなみに、「教室員会」という名称は、インターネットで検索した限りにおいて使われている組織は僅かであり、「教室委員会」と誤認されることが多い。戦後のGHQ占領政策と共に混乱期に日本各地で結成されていた「労働組合」とは異なる名称とし、保守的で対立せず、体制側と率直な話し合いを行うことで信用され発展してきた教室員会は、その名称にも発足当初からの理念と伝統の重みが感じられる。

三者協~艮陵協議会への関わり

 1971年(昭和46)に、石川誠教室員会委員長らが中心となって、東北大学独自の卒後研修システムである三者協議会(三者協)が発足した。三者協は大学(教授会・教室員会)、臨床研修医、臨床研修病院で構成され、主に内科・外科の志望者が研修終了まで非入局であること、学生の病院見学の斡旋や、研修病院での研修医数の自主的調整を行うことなどを特徴としていた。これらによって、研修病院の発展、地域医療を支えると共に、卒後教育に重要な役割を担ってきた。長年教室員会が実務を担当してきた三者協は、1987年(昭和62)に発足した東北大学関連病院協議会と統合し、新組織設立に向かうこととなり、平成3年度にそのワーキンググループが立ち上がった。継続的協議の後、平成5年度に東北大学艮陵協議会が発足した。初期研修はこの協議会の下、学部教育・初期研修・後期研修・専門医と連なる医師の生涯教育の一貫として見直された。艮陵協議会の事務局としての実行部隊はしばらく教室員会が務め、初期研修のための研修項目のチェックリスト作成、実施プログラムの作成などを行うことで、艮陵協議会としての卒後研修の具体化をより進めていった。平成16年度からは、卒後臨床研修必修化とともに全国レベルでのマッチング、東北大学病院での研修医受け入れが開始されたことにより、艮陵協議会を通じた研修医リクルートの役割を見直さねばならなくなった。教室員会からの働きかけの効果もあり、東北大学を中心として、艮陵協議会の関連病院が協力して研修期間での医師を育てていく方向性が出来上がった。平成20年度より艮陵協議会はNPO法人化し、関連病院との連携に関する実務は徐々に教室員会から艮陵協議会に移行されていった。艮陵協議会の発足は、教室員会の活動内容の大きな転換点になったと考えられ、その後の教室員会の活動は、星陵キャンパスにおける教室員の勤務環境改善、研究サポートや親睦が中心となっていった。

6年間一貫教育、大学院重点化への対応

 平成5年度から学生教育において教養部の廃止と、6年間一貫教育が開始された。その準備段階より、教室員会では医学部教務委員会と複数の懇談会を重ね、カリキュラム再編成の実行に伴う問題点の抽出、及びその改善策について意見を交換し「学部教育対策部報告書」として冊子に纏められた。また、大学院重点化構想に関しても、この頃より教室員・大学院生の研究環境における現状と将来像に関する調査などを行い、医学部と話し合われるようになった。卒前教育・卒後教育の変化のうねりが到来したことにより、平成7年度には教室員会でも常任委員会の部局編成が行われ、学部教育対策部と卒前教育対策部が教育問題対策部に一体化された。

福祉厚生、広報活動

 平成3年度から教室員会と辛酉会の懇談の場が設けられるようになった。当時慢性的な交通渋滞を来していた駐車場の問題や、食堂・売店における問題点が話し合われた。辛酉会との懇談会は現在も継続して行われているが、その中でも平成23年度の病院長懇談会後から実現に向かったコンビニエンスストアの設置(実際の設置は24年度)などは教室員会の意見が大きく反映されたものである。
 平成5年度から外来棟で、教室員及び病院職員が出演するコンサートが開催されるようになった。年2回(たなばたコンサート・ひな祭りコンサート)が継続して開催されており、学生グループや、時に患者さんが参加することもあった。患者さんやその家族を中心とした観客の方々も、和やかなひとときを過ごされ気分転換にもなっていたと思われる。また、毎回院内学級の子ども達が、切り絵や折り紙も交えた素敵なポスターを作成してくれており、学級活動としても定着している。令和元年度末からは、新型コロナにより3回連続してコンサート開催が中止となってしまったが、令和3年度はオンライン開催を実現することができた。オンライン開催は、各出演者(グループ)が事前収録したものを期間限定でYou tubeを用いてオンデマンド配信する形式とし、またホスピタルモールでのプロジェクターを用いた再生、病棟テレビへの配信も実現した。
 病後児保育室設置は教室員会が主体となって活動してきた。平成10年度に保育問題検討小委員会を設置し、平成11年度には病院外来棟5階に病後児保育の部屋を確保、平成12年度に運営を開始させることができた。病院執行部、病院事務、看護部からの理解と支援を受けながら、教室員会がボランティアで運営を継続していたが、平成15年度に東北大学男女共同参画奨励賞「沢柳賞」を受賞し、2006年(平成18)から正式に大学病院の施設「星の子ルーム」として運用されるようになった。国立大学病院で最初に設置された病後児保育施設であった。設立当初より会員以外の職員も利用できるような体制としていたが、この年に『杜の都女性ハードリング支援基金』の援助も受けて、利用者の対象が全学に開放された。平成31年度からは、教室員会からの働きかけもあり、星の子ルームは保育の対象を軽症病児にも拡大した。この経緯により、現在も「星の子ルーム」の実務者委員会は教室員会が担当している。

教室員会創立50周年から令和へ

 平成7年度に、3年越しの長期計画のもと教室員会創立50周年記念式典が開催され、翌年度に50周年記念誌が発刊された。記念式典は、大石初代委員長の講演を含め、諸先輩が集まられた盛大な会であったようであり、記念誌にはその会の様子や教室員会のそれまでの歴史が詳細に記載されている。この記念誌には、教室員会の足跡をたどり、教室員会の今後の方向性を定めるにあたって貴重な資料でもある。また、平成7年には広報部が編成され、「教室員会だより」の発行担当となった。教室員会だよりは、適宜広告掲載収入を保ちながら定期発行されており、会員以外に対しても星陵キャンパス内および、艮陵協議会の関連病院に現在も配布されている。バックナンバーは、星陵地区限定アクセスであるが教室員会のホームページに掲載されており、それぞれの時代における教室員会の活動を知ることが出来る。
 平成8年度に実施された総長選挙では、選挙規定の改正に伴い医学部代議員9名のうち3名を教室員会から送り出すことが決定された。大学の意思決定への関わりを重要とする教室員会の活動基盤が引き継がれていたことがわかる。病院長予備調査は、かつての教室員会の活動で勝ち取った権利であり。教授以外かつ医員、研修医までが投票の有資格者として含まれる、重要な意思決定の機会であった。しかしながら、教室員の選挙への関心の低下も同時に懸念され、たびたび投票数不足で不成立となることがあった。なお、病院長予備調査は、平成16年度の独立行政法人化を境にして、実施されなくなった。
 平成一桁の後半から平成10年代前半は、インターネット・SUPER TAINSの学内導入、大学院重点化の実施、病棟新築工事に伴う診療体制の変更、加齢医学研究所附属病院との統合など、教室員を取り巻く大きな環境の変化が起きていた。教室員会でも、コンピューターネットワークシステムの早期拡張の要望やホームページの開設による情報提供などを行いつつ、救急医療や臓器移植、基礎研究に関するシンポジウムの開催などを行った。
 平成16年度からの東北大学の独立行政法人化に伴い、教室員会では労働協約締結への関与が重要課題となった。独立行政法人の就業規則や労使協定の締結に関する事項が明らかになるにつれ、短期間のうちに労働者の過半数代表者を選出する必要に迫られた。ここで、教室員会は発足当初から継続する横断的な組織である強みを生かし、東北大学病院、医学系研究科の初の過半数代表者が教室員会から選出されることとなった。
 平成10年代後半から新型コロナ前までは、東日本大震災を乗り越えながらも、全体的には安定した活動を教室員会は継続していたと思われる。平成20年度には、教室員会教育賞のベストティーチャー賞の創設、大学病院と大学院生の間での雇用契約締結が行われた。2009年(平成21)には、病院長懇談会での要望が契機となりメディカルクラークの採用が始まった。当初は10人であったが、その後も増員要望を継続して提出し、現在は、外来・病棟に多数のメディカルクラークが配属されている。
 2011年(平成23)の東日本大震災では、病院長を中心とした指示系統のなかで東北大学全体として、被災地の災害拠点病院として被災者の診療にあたり、宮城県内の被災地域の支援を東北大学病院独自に行った。極限状態の中において教室員会では、1.病後児保育室「星の子ルーム」の震災4日目からの再開、2.辛酉会の協力を仰いだ「夜食」の確保、3.病院敷地内の駐車場の医療スタッフ専用化、4.多大な損害を受けた3号館耐震補強の請願書提出を行った。また、その後仙台フィルの復興コンサート、被災病院関係者を集めた講演会などを含め、復興に向けた活動を行った。資金面においても些少ではあるが、教室員会の準備金を切り崩し、各教室に災害時分野等見舞金を支給した。
 平成25年度から教室員会が主催する講演会・セミナーを「キャリアアップセミナー」と銘打つこととし、今年度(令和3年度)までに44回開催してきた。また、教室員会の働きかけにより女性休憩室のセキュリティー管理を含めた整備、女性更衣室、女性研修医の当直室整備などが進み、女性職員の業務環境改善が得られてきた。ダイバーシティに関する取り組みは、教室員会の優先課題の一つである。
 令和2年度は、新型コロナを契機としたデジタル化が教室員会でも急速に進んだ。大学組織としてメール管理のプラットフォームにGoogle Workspaceがその前年から導入されたことにより、教室員会定例委員会、総会のオンライン開催、教室員会委員長・副委員長選挙のGoogle Formを用いた投票を実施した。また、執行部の定例会議(令和3年度より役員会議と名称変更)も、Zoomを用いたオンライン会議が主体となった。これにより、外勤中でも会議に出席することが可能となり、利便性が格段に向上した。一方で、平成18年度に教室員会が購入したA0プリンターの使用頻度が、コロナ禍を契機とした学会のオンライン化のため激減してしまった。A0プリンターは、会員にとって良心的価格でポスター作成ができることと同時に、教室員会の貴重な収益事業であったことから、今後教室員会の事業の見直しが迫られる可能性がある。また、長年教室間の親睦の場、ときに真剣勝負の場として、ルールを適宜変更しながら継続されてきた運動部の活動も、コロナ禍を契機に中断してしまった。昨今の教室員の多忙な業務や医局行事に対する意識の変化もあり、教室員会主催のスポーツ大会の参加者は減少傾向であり、チーム競技のチームの編成も難しい教室も増えているようである。アフターコロナあるいはウィズコロナにおけるスポーツ大会の運営をどの様にしていくか、今後の検討課題であろう。
 教室員会は発足から75周年を迎えた。規約には「本会は本会会員の教育、研究の自由を確保し、教育、研究、診療のあるべき姿を追究し、医学・医療の進歩に貢献するとともに、勤務条件を維持又は改善し、その経済的及び社会的地位の向上をはかることを目的とする。」と明記されており、発足時の理念を継承している。現場の声を拾い、体制側と常に発展的な議論を継続することで、会員のみならず星陵地区全体の発展に寄与していくことが重要な任務であり、今後も、大学・病院運営に不可欠な組織であることを願う。

文責 令和3年度教室員会委員長
大田 英揮(放射線診断科)
                       

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